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                                19-09-03
        ドイツの古城    〜歴史の旅
       【第13号  モーリッツブルク(ハレ)】
                     http://burgen.nce.buttobi.net/
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○はじめに

 みなさんこんにちは,お久しぶりの発行人のぺんたです。ドイツ発の最後のメ
ルマガを発行し,気がつけばもう半年が経過。まぐまぐさんからお叱りのメール
が……。

 みなさんは,ドイツに一体いくつの城があると思いますか。1万とも2万とも
言われています。
 どの城にもその城の歩んだ歴史がありますので,それをみなさんに紹介します。

 第13号は,ハレにあるモーリッツブルクです。モーリッツブルクという名の城
は,私の知る範囲では他に2つありますが,今回はハレにある城を紹介します。


○お知らせ
 またまたサイトの引越しをしました。Tripodがiswebに吸収されたからです。
ポップアップ広告嫌いの私はまたもや移転を決意。3度目の引越しです(最初の
引越しは容量不足だけど)。(泣)
 安住の地を求めてさまよい続けるゲルマン民族なサイトか?!?

 http://burgen.nce.buttobi.net/


●モーリッツブルク(Moritzburg)

 961年,オットー1世から「ciuitas Giuicansten」を製塩所付で大司教区マグ
デブルクのモーリッツ修道院に完全譲渡されました。
 1280年,都市ハレはハンザ同盟に加わります。
 マグデブルクの大司教たちとの闘争のすえ,1478年に都市ハレの法的な独立は
終わります。
 最初の建築場所であるマルチンスベルク(今日のシュタットゴッテスアーカー)
とペテルスベルク(今日のオペルンハウス)は地盤が悪く,水の乏しかったため,
中世の環状城壁の北西,都市境界内に建設されました。これは1310年に市民が勝
ち取った,大司教の都市内ブルク建築権の放棄に違反しています。
 1484年の春に建設が始まり,1484年5月25日に司教エルンストが礎石を置きま
した。
 1503年5月,司教はまだ未完成のモーリッツブルクに移りました。影響は殆ど
そこに滞在しています。
 1504年4月19日,「arx Sancti Mauritii」というブルクの守護聖人の名前で
文献に見つかります。
 カルディナル・アルプレヒト5世・フォン・ブランデンブルクが断続的に30年
間滞在します。彼は芸術や科学を愛するルネッサンス貴族でマティアス・グリュ
ーネヴァルト,アルプレヒト・デューラーのような有名な芸術家たちが発注を受
けて仕事をしています。ハレはドイツの初期ルネッサンスの重要な中心地として
発展していきました。
 大司教区の城伯の役職をめぐって,カルディナル・アルプレヒトとザクセンの
聖職者ヨハン・フリードリッヒの対立は激しさを増し,新しい防御理論を基に外
側の防御設備が変更されました。
 1541年にカルディナルがマインツへ退却した後は,自由を求める都市に対抗す
る領主の権力を示す手段として残りました。「強固なシュロス」としてブランデ
ンブルク家出身の大司教の安全な滞在場所となりました。
 1556年8月11日,ジギスムント・フォン・ブランデンブルクは最初の領主とし
てモーリッツブルク礼拝堂で新教の説法を行いました。
 最後の管理官アウグスト・フォン・ザクセンの頃,領主の滞在の中心地は他へ
移り,ブルクは荒れ果てていきます。
 三十年戦争時,モーリッツブルクはスウェーデンの攻撃を受け,廃墟になりま
した。

 1822年,プロイセンの建築官に記念碑として記帳され,後の国王フリードリッ
ヒ・ヴィルヘルム4世の発案により,再建計画を提案ました。グスターフ・ヴォ
ン・ディーストが1888年にブルク再建計画を発起し,1894年以降,大学と都市ハ
レが断続的に実行していきました。

 現在はザクセン・アンハルト州の Stiftung Schloesser, Burgen und Gaerten 
の管理下にあり,1996年から更なる修繕,修復作業が行われております。


開館時間
 水曜日〜日曜日,祝日,10:00〜18:00。
 火曜日は11:00〜20:30。

休館日
 月曜日,12月24日,31日

所在地
 Moritzburg Halle Landeskunstmuseum Sachsen-Anhalt Friedemann-Bach-Platz 5 06108 Halle(Saale)
 Tel. 0345-212590  Fax. 0345-2029990

所有者
 Stiftung Schloesser, Burgen und Gaerten des Landes Sachsen-Anhalt 


●平城(Flachlandburgen)とは

 耕地が近く,移動も楽で,水の確保が容易と言う利点は在るが,防御性に難。 

島(Insel)
  湖に浮かぶ島や川の中州に立つブルク。城を建てることが出来るような地理
 的条件は少ないため,この形式のものは非常に少なく全体の0.3%しかない。
 名前は-worth,-werderで終わる。 

平地(Ebene)
  城を立てる場所としてはあまり好ましくない。しかし山が全然無い北ドイツ
 平原等は平地に建てるしかない。ヴェストファーレン地方に多い。
  この場合多くは水城(Wasserburg)の形をとる。周りに水掘りを張り巡らせ
 て敵の侵入を防いだ。
  それゆえ,湿地帯,小川の側に建てられる。
  水路を作って川から水を引き込むか,または池に人工島を作ってそこに建て
 た。
   上述の島の場合もそうだが水城の場合,冬でも水が凍らず,多少の日照り
 続きでも水が枯れないようにしなければならないのが難しかった。


  後にブルクの時代が終わりシュロスの時代になったとき,水城はシュロスに
 はもってこいの立地条件のことが多かったため,簡単にシュロス化された。現
 在,水城または元水城であることが分かっているのはブルク全体の26.7%であ
る。
  ブルクからシュロスになるとき,元々在ったブルクの形が分からないほどに
 なってしまっているのも多く,そのようなものも含めるとブルクの30%以上は
 水城であったと推定される。 


丘(Hugel)
  何も無いところに建てるよりかは幾分かマシ。全体の3.9%がこの立地条件。
  だが歴史は古く,最初のブルクといったらこの形態。



○基本用語
 ブルク(Burg)
    城砦。中世騎士の時代に主に建てられた,軍事機能に重きを置いた城。居住
    性に乏しい。

 シュロス(Schloss)
    城館。騎士の時代も終わりになり,軍事機能よりも居住性が重要視されるよ
  うになった城。


○あとがき

 ヨーロッパバスでロマンティック街道を行くと,バスの中では日本語のテープ
による案内がある。ヴァイカースハイムの説明で,「ヴァイカースハイム城は云々
……,“み ず し ろ”で,……。」
 (・_・)み・ず・し・ろ?何それ?
 それは「みずき」と読むんじゃ〜〜〜っ!!(怒)
 「水城」は「みずき」と読みます。お間違いのないように。


 ドイツに5年もいたんで,いろいろな物の感覚や常識がドイツ化している。郵
便局で封筒を売ってないし,押しボタン式の信号が「壊れているのか?」と思う
ぐらいになかなか変わらないし,ごみ捨てがドイツよりはるかに面倒くさいとい
うか,家の中にごみ溜め場を用意しないといけないし(いつでもゴミコンテナの
中に入れられるドイツ)。赤ん坊を補助器具なしに抱っこして,買い物篭を持っ
て買い物している姿が一番驚いたわ(見ていておっかない)。


次号予定,ラニス城。
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    発行人:ぺんた
    サイト:http://burgen.nce.buttobi.net/
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