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                                29-08-04
        ドイツの古城    〜歴史の旅
       【第15号  ホーエンツォレルン城】
                     http://burgen.nce.buttobi.net/
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○はじめに

 みなさんこんにちは,お久しぶりの発行人のぺんたです。
 みなさんは,ドイツに一体いくつの城があると思いますか。1万とも2万とも
言われています。
 どの城にもその城の歩んだ歴史がありますので,それをみなさんに紹介します。

 第15号はプロイセン王家発祥の城,ホーエンツォレルン城を紹介します。この
城は最初のブルク,2番目のブルク,そして現在の城へと移り変わっています。


●ホーエンツォレルン城(Burg Hohenzollern)

 最初のブルクはは11世紀頃と推測され,環状城壁に取り囲まれ,四角いベルク
フリートと礼拝堂があったとされています。

 1407年にツォレルン伯フリードリッヒが亡くなると,5人の息子のうち長男と
次男が遺言通り共同相続しました(どちらも名前はフリードリッヒ)。しかし次
男はキレ易い性格から,兄と衝突し,盗賊騎士に成り下がり,ついには戦争にな
りました。
 1423年10月。城は陥落し,略奪され,当時の慣習に反して礼拝堂をも徹底的に
破壊されました。そして皇帝ジギスムントはツォラーブルク再建を永久に禁じま
した。

 破壊されたツォラーブルクの再建禁止令を取り消そうと,ヨス・ニクラスは精
力的に活動し,フランスの親族の支援のお陰で皇帝フリードリッヒ三世の許可を
得ることに成功しました。そして1454年にヨス・ニクラス一世により定礎が行わ
れました。3つのベルクフリート,住居翼,ミヒァエル礼拝堂のある馬蹄系のブ
ルクができました。3つのベルクフリートの名と,建物の原型,ミヒァエル礼拝
堂は現在の城にも受け継がれています。

 16世紀になると,貴族は不便なブルクから快適なシュロスへと移り始めました。
ツォレルンもまた1576年のアイテル・フリードリッヒ四世の即位の際に,ヘッヒ
ンゲンに完全移住しました。ブルクは住居として使われることはなくなりました
が,避難地として残りました。

 ヨハン・ゲオルグ伯爵は1618年から1623年にかけてブルクを要塞へと変化させ,
稜堡が設置されました。難攻不落の要塞になります。

 三十年戦争時,ブルクはヘッヒンゲンに住む人々の避難場所になりました。
 1633年1月,カール・フォン・ホーヘンツォレルン・ハイガーロッホ伯はブル
クに兵士と共に逃げ込み,その1ヶ月後にスウェーデン軍に占領されました。そ
の後ヴュルテンベルク軍が包囲し,1634年春,兵糧攻めにより奪い取りました。
 1635年,ブルクをバイエルン選定侯マクシミリアン軍に明け渡し,1650年まで
所有しました。

 1667年にオーストリア政府と要塞設備の修復・維持にあたりましたが,費用は
全然足りませんでした。そのため,18世紀の始めにはブルクの一部は壊れ,井戸
や暖炉も壊れたままになっていました。

 皇帝カール六世の死後,オーストリア継承戦争が始まりました。ホーエンツォ
レルン城をオーストリア軍が陣取り,ヘッヒンゲンをフランス軍とプロイセン軍
が支援します。戦闘することなく交渉により1744年に引き渡されました。
 1745年春にブルクから駐屯軍が撤退した後,人の住まない状態が続き,ブルク
は荒廃し,19世紀初頭には倒壊寸前の状態になりました。

 1819年,当時のプロイセン皇太子で後の国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム四
世がホーエンツォレルンを訪れ,家族の住む城へと再建を志しました。しかし,
財源が確保できず,すぐに実行に移せませんでした。
 1846年,再建を担当する委員会が設置され,47年に建築が始まりました。が,
48年の三月革命で一時中断を余儀なくされます。

 1850年9月23日 ,プロイセン王子ヴィルヘルム(後の皇帝ヴィルヘルム1世)
による定礎式が行われました。
 1841年に要塞建築士モーリッツ・フォン・プリットヴィッツ・ウント・ガフロ
ンは山道設備の建築を担当することになりました。フォン・プリットヴィッツの
成し遂げた仕事は,19世紀の戦争建築術の傑作と言われています。

 1853年に要塞設備が完成し,城館部分の建築が始まります。費用の2/3はプロ
イセン王家,1/3はジグマリンゲン侯爵家が出しました。

 再建途中の1866年,ホーエンツォレルンはドイツ戦争に巻きこまれ,ヴュルテ
ンベルク軍に一時占領されました。

 1867年10月3日,完成式が行われました。ドイツの新聞の多くがこの事を報道
していました。完成した城は最初の二つの城とは異なり「定住」するためのもの
と考えられたことはなく,狩猟途中など,一時的な滞在地として使用されたにす
ぎませんでした。

 第二次世界大戦後,プロイセン王家は殆どの資産を失いましたが,ホーエンツ
ォレルン城は残りました。プロイセン皇太子ヴィルヘルムは1945年の秋にブルク
に移り,51年に亡くなるまで生活しました。皇太子の希望により,ブルクに埋葬
され,夫人もまたここに埋葬されました。ホーエンツォレルンに始まり,またこ
の地に戻ってきた,というような言葉を残しています。


公式サイト
 http://www.preussen.de/de/heute/burg_hohenzollern.html
 英語もあります。

開館日
 11月1日〜3月15日 10:00 〜 16:30
 3月16日〜11月1日 9:00 〜 17:30
 ガイドツアーは約35分ごと。
 外国語ツアーや時間外ツアーは要問い合わせ

所在地
 72379 Burg Hohenzollern (Gemarkung Bisingen)
 Tel. 07471 2428  Fax. 07471 6812



●探訪紀

 麓からバスも出ているようですが,山道を歩いて登りました。門から渦巻き状
に上る変わった道はここしか見たことがありません。ぐ〜るぐる

 入り口入ってすぐの家系図にまず圧倒されました。でも,同じ名前で数字だけ
が違う人物の説明されるので,こんがらがるどころか,全然分からん。フリード
リッヒ一世だの二世だの言われてもねぇ。
 その部屋での説明が,また長い長い。一番時間を割いて説明された部屋かも。

 途中でまじめに聞くのをあきらめて,ふと横を見て気がついた。ドアにブロッ
クのペイント。
 ブロックを一つ一つ積み上げて作られたものだと思っていたのに,実は全て壁
に描かれた絵だった。しかもブロック一つ一つ色が違う。ドアにも描かれていた。

 他の部屋にも,美しい装飾品かと思いきや,実は壁に描かれた絵だったという
ことがいくつか。ご丁寧に影まで描かれていた。

 この城を訪れた同じ日にジグマリンゲン城へ行ったのですが,ジグマリンゲン
城の方が印象が良すぎたために,ホーエンツォレルン城の内容はあまり覚えてい
ないのね。m(_ _)m 



○基本用語
 ブルク(Burg)
    城砦。中世騎士の時代に主に建てられた,軍事機能に重きを置いた城。居住
    性に乏しい。



○あとがき

 フリードリッヒばかりで分けわかんね。兄弟みんなフリードリッヒだったりし
て。どのフリードリッヒ??どのヴィルヘルム??な個所がいっぱい。


 また転勤で引っ越しがあった(遠州→上州)。国内移動だったから,前回に比
べたら非常に楽な引っ越しだった。まあ,それなりに落ち着いたけど,1年予定
だからまた引っ越しが待っているのね。C=(-。-)


次号予定,ラインフェルス城。
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    発行人:ぺんた
    サイト:http://burgen.nce.buttobi.net/
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