子供の教育


7歳まで

 上流階級の母親は自分で母乳を与えず,乳母に世話をさせた。

 男の子も女の子も,婦人の間(Kemenate)の女性達の下で育てられる。父親のテーブルにつくこともしなかった。

 おもちゃは簡単なもので,木製で音の出るものだったりした。
 子供達は卵をもらうことを喜び,特に絵の描かれている卵に喜んだ。(それって,イースター卵じゃ…。^-^;)

 棒の先に馬の頭がついたおもちゃ,駒,輪投げ,吹き矢,鬼ごっこやかくれんぼ,ブランコ,玉遊びをして遊んだ。
 女の子は人形や鏡道具で遊んだ。

 夏には水遊びをしたり,苺狩りをすることもあった。

男の子の場合-7歳以後

 7歳になると本格的に厳しい教育が行われ,叩かれることもあった。
 まず雅(hofisch)な立ち振る舞いを学んだ。
(ちなみにこのhofischから礼儀正しい(hoflich)と美しい(hübsch)という単語が派生している。)

 立ち振る舞いのほか,日常の遊戯や音楽,神学,12世紀には子供にフランス語を始めいろいろな語学も教えるようになっていた。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(Wolfram von Eschenbach)はフランス語を書くことは出来なかったが,話すことは出来たらしい。家庭教師と一緒に関係国へ出かけることもあった。

 中世初期の頃,読み書きが出来るのは殆ど聖職者に限られていたが,子供を知識人の下で学ばせて,読み書きを習得させた。多くの国王は知識人の講義を受けて,読み書きが出来たようである。読み書きは鉄筆とワックス板で練習した。
 読み書きよりも,外国語をしゃべることの方が重要視された。読み書きはものにならなかったことが多かったらしい。

 時には子供を有名な教師の下で,自由七科(die sieben freien Künste:文法,修辞学,弁証法,音楽,算術,幾何学,天文学)を学ばせた。
 15世紀になるまで本は大変高価で貴重なものであり,本を読むより講義を聴く授業形態である。(日本だったら,『子曰く…』と本を読むもんなあ。現在でも耳学問の西洋と目学問の東洋の違いがあるよね。)

 将来武器を扱う騎士になるための体を作るために,陸上,ロッククライミング,格闘,弓道,水泳,乗馬,槍投げの練習をした。そして刃先の丸い練習用の剣と盾を使用して,剣術の練習をした。武術の練習に,狩猟が実用的だったらしい。

 本によって年齢がまちまちなんですが…,ある本は7歳,またある本は12歳から14歳になるととあります……(^-^;)。その年齢になると子供は親元を離れて他の信頼できる騎士の下に送られて,そこで騎士見習(小姓)として騎士になるための修行を行った。

 騎士見習の仕事は,食卓給仕,使い走り,客人からの預かり者の保管(武器や馬),馬の世話等である。騎士見習も卒業間近になると,戦争にお供するようになる。
(これも本によって年齢が違うが)だいたい21歳になると,騎士叙任式(Ritterschlag)を経て,給仕仕事とはおさらばし,騎士入りをする。この騎士叙任式は,ドイツでは14世紀になってようやく登場した儀式である。

女の子の場合-7歳以後

 女の子の役割は,結婚して子供を産むこと。だけど教育もちゃんと出来ていなければならない。
 学問的な教育は男の子の場合と殆ど同じである。

 女の子は親元で教育を受け,主に母親が先生で,奥の部屋が教室だった。他に親戚の未婚女性や未亡人も先生となり,糸紡ぎ,裁縫,刺繍,音楽などを教えた。
 そこで給仕の仕事をしたり,いろいろな仕事を分担して請け負い,常に城主夫人の傍にいた。

 武が重んじられた男の子に比べ女の子の方が教養レベルが高く,たいてい読み書きが出来たらしい。この時代に優れた文学作品を残した女性もいたようである。

 女の子には薬草の知識が重要視された。ブルクの庭で観葉植物や食料用植物の他に薬草を育てることを学び,乗馬を学んだ。

 だいたい結婚適齢期(当時は10代前半)になると,父親の上司に当たる主君の社交の場にデビューする。ここでのパーティーは結婚相手を見つける絶好の機会であるのだが,それは両親にとってのこと。結婚相手は両親または親戚筋によって決められた。

 当時は女性にとって結婚は喜ばしいことではなかった。女性の地位は低く,夫は妻に従順を要求し,殴る権利を持っていたからだ。それがたとえ本当に愛している妻であっても,当然のように暴力を振るっていた。

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