フェーデ(Fehde)

 中世前期,フェーデは加害者に対し自由民である被害者,またはその一族が暴力でもって加害者に復讐する訴訟法であった。決して不当な自助救済ではなく,認められた行為である。フェーデを行うかどうかは,本人とその一族に任せられていた。

 フェーデは決まった場所,決まった建物で行われた。フェーデは相手側に犠牲者を出すことではなく,相手に贖罪協定を認めさせることにある。

 一般的にフェーデは武器を持つ能力のあるものであれば農民でも行うことが認められていたが,12世紀の始めには騎士社会と街のみに適用されるようになった。

 カロリング朝時代の国王は,フェーデを制限しようと苦心していた。
 10世紀の終わりに教会が行うことをやめ,12世紀中期から国王と帝国議会が平和運動を受け入れてフェーデを禁止しようとした。

 フェーデを行うにはその都度,決まった形式の果し状(Fehdebrief)を告知することが,騎士の守るべき道徳となった。それでフェーデを行う場所と日時を公開しなければならなかった。それはフェーデには関係のない農民,僧侶,商人,婦人を保護するためでもあった。

 フェーデを行うための手続きがいろいろ面倒になっても,なにかとかこつけて結構行っていたようである。

 1495年,帝国憲法の制定により,訴訟法としてのフェーデは禁止された。
 戦争と言う形での領主間の争いはその後も続くが,訴訟法としてのフェーデはそれ以後行われなくなった。

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