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ハールブルク(Harburg)

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お城の写真だよん

ハールブルクだよ〜 ハールブルクだよ〜
左はボールのついた矢狭間。右は仮装してダンスをしていた人たち。

11世紀前半
すでに城があったと推定されている。専門家によれば,ブルクタイプはオットー王時代のものであり,10世紀のハンガリー人襲来に対して建てられたと考えられている。
1150
信憑性のある文献に初めてハールブルクの名が登場。ドイツ国王コンラート3世(Konrads III)と共同統治者の13歳の息子ハインリッヒ(Heinrich)がビザンチンに出した手紙に登場する。
1251
国王コンラード4世(Konrads IV)はハールブルクの集落をオェッティンゲン伯ルードヴィッヒ3世(Graf Ludwich III. von Oettingen)の担保として与えた。伯爵はシュタウフェン朝皇帝の側近であった。
1299
ハプスブルク朝皇帝アルプレヒト1世(Albrecht I.)はハールブルクの城と市場を担保として伯爵に与えた。
1418
抵当料が値上がりし,ジギスムント皇帝(Kaiser Sigismund)は負債支払不可能であることを表明。これよりハールブルクは正式にオェッティンゲン家の所有物となる。
1496
オェッティンゲン伯ヴォルフガング1世(Wolfgang I:1455-1522)は行政機関は短かったものの,大広間を完成させる。
1522
ヴォルフガングの死後,領地は二人の息子が分割し,ハールブルグはカール・ヴォルフガング(Karl Wolfgang)の所有となった。
1547
シュマールカルディッシュ戦争(Schmalkaldischer Krieg)勃発。カール・ヴォルフガングとルードヴィッヒ15世(Ludwich XV.)の兄弟戦争なのだが,プロテスタント対カトリックの宗教戦争でもある。カトリックのルードヴィッヒ15世が勝利し,城の所有はオェッティンゲン-ヴァラーシュタイン(Oettingen-Wallerstein)家のものとなる。
1632
30年戦争の戦禍にリース盆地も見舞われる。ハールブルクは大きな破壊を免れたが,他の城はことごとく破壊され,多くの血が流された。スウェーデン軍に占拠される。
1674
オェッティンゲン-オェッティンゲン家は侯爵に列席される。このころまでに,破壊された城のあちこちが修復再建される。
1731
アルプレヒト・エルンスト2世(Albrecht Ernst II)の死去によってプロテスタントのオェッティンゲン-オェッティンゲン家は断絶。領地はオェッティンゲン-ヴァラーシュタイン家とオェッティンゲン-シュピールベルク家(Oettingen-Spielberg)に引き継がれ,ハールブルクはカトリックのオェッティンゲン-ヴァラーシュタイン家の所有となる。
1800
第二次同盟戦争に巻き込まれる。文書類は中立のプロイセン(Preußen)の修道院に移される。ハールブルクは破壊こそ免れたが,フランス軍に占領される。
1848
ドイツ革命によって,バイエルン王国に入り,裁判所と警察署としての役割がハールブルクに残った。
1991
11世紀から18世紀までの宗教上の貴重な資料である私設書庫を国に提供。幾多の戦争の拠点であった城を一般公開し,観光地化を図る。

開館期間
3月16日〜10月31日。月曜休館。
開館時間
10時〜17時。見学はガイドツアーのみ。
連絡をすれば,冬でもガイドを行ってくれる。
所在地
Schloss Harburg Burgstr.1 86655 Harburg
Tel. 09080-96860   Fax. 09080-968666
お店:Tel. 09080-968630
ホテル&レストラン:09080-1504
http://www.fuerst-wallerstein.de/:ドイツ語。侯爵家所有の他の城と合わせて紹介されています。
所有者
Fürst zu Oettingen-Wallerstein'sche Kulturstiftung
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