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                                15-03-02
        ドイツの古城    〜歴史の旅
       【第6号  ハイデルベルク城】
                       http://burgen.hoops.ne.jp/
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○はじめに

 みなさんこんにちは,発行人のぺんたです。みなさんは,ドイツに一体いくつ
の城があると思いますか。答えは,沢山です。1万とも2万とも言われています。
 どの城にもその城の歩んだ歴史がありますので,それをみなさんに紹介します。

 第6号は,古城街道にある有名観光地,ハイデルベルク城です。ドイツ観光パ
ックツアーのコースに入っていることが多いので,行ったことのある人もきっと
多いと思います。行ったことのある人は復習に,これから行く人は予備知識にし
てみんなに自慢しましょう(笑)。知っているのと知らないのとでは,きっと見
る目が変わりますよ。
 ここはヴィッテルスバッハ家はプファルツ選帝候の居城だった所です。プファ
ルツ選帝候ヴィッテルスバッハ家についてはまたここの世話になって,

http://page.freett.com/mako_vl/pfalzwittelsbach.html

を中心にして他の枝も見ていくと良いと思います(分かれすぎや)。登場人物間
の関係は,家系図を見ながらでないと,分かりにくいです。


●ハイデルベルク城(Schloss Heidelberg)

 12世紀にヴォルムス司教が小さなブルクと村を作りました。
 1155年にフリードリッヒ一世赤髭王の異母弟であるコンラート・フォン・ホー
エンシュタウフェンが叔父のヘルマン・フォン・シュタールエックと叔母のゲル
トルート・フォン・シュヴァーベンの所有からラインフランケン地域を受け継ぎ
ます。たぶんここには既にブルクが建っていたと考えられています。
 1214年,ルードヴィッヒ一世・フォン・ヴィッテルスバッハがシュタウフェン
家の所有を受け継ぎます。
 1225年,ハイデルベルクのブルクの名を文献にはっきりと確認できます。
 1294年にオーバーバイエルン公ルードヴィッヒ二世から家系が分岐し,ライン
地域をプファルツ伯ルドルフ一世が受け継ぎます。国王アドルフ・フォン・ナッ
サウの娘と結婚し,兄のルードヴィイッヒ・デア・バイヤーは国王になります。
 1303年頃の文献によると,ハイデルベルクにはブルクが2つあったことが分か
っています。下ブルクは現在城がある場所で,上ブルクは僅かに跡が残っている
のみです。まだ城は殆どの部分が木製でした。
 1329年,ルドルフ二世がプファルツ選帝候に昇格します。
 1386年にルプレヒト一世がハイデルベルク大学を設立します。二代目プファル
ツ選帝候。
 1400年にルプレヒト三世がドイツ国王になります。二重環状城壁,堀,塔を持
つ城を完成させます。今の城の原型がこのときにほぼ出来あがります。彼と王妃
の姿は聖霊教会にあり,当時の服装が伺えます。
 15〜16世紀,フリードリッヒ,ルードヴィッヒ五世,オットハインリッヒによ
り,ブルクから要塞へと変遷します。谷側の防備は強化され,山側に城門が設け
らます。しかしその一方で芸術面にも力を入れ,居住部分はルネッサンスシュロ
スとなりました。
 1525年の農民戦争により城は要塞として有効に働き,多くの戦利品を得ます。
 1559年,オットハインリッヒを最後にプファルツ選帝候家が途絶えます。プフ
ァルツ・ジンメルン家のフリードリッヒ三世が引き継ぎます。
 1619年,フリードリッヒ五世がボヘミア国王に選ばれますが,ヴァイセンベル
クの戦いで皇帝軍に敗れます。在位僅か一年ゆえに冬王(Winterkonig)と呼ば
れています。 
 三十年戦争時,フリードリッヒ五世はプロテスタント派として戦います。城と
町は大きな被害を受けます。
 1649年,フリードリッヒ五世の息子,カール・ルードヴィッヒの代になり,城
の修復が行われます。破壊された部分は以前よりもより良いものに改築されまし
た。
 17世紀後半,カール・ルードヴィッヒの息子,カール二世の代になると,隣国
フランスの脅威がありました。城をより強固なものにするために稜堡が設けらま
した。子供がいなかったことから,後に起こる継承戦争を予想していたのかもし
れません。
 1685年にカール二世が子供を残さずに死ぬと,ノイブルク系のフィリップ・ヴ
ィルヘルムが引き継ぎますが,婚姻関係から継承権を主張してきたフランス国王
ルイ14世が攻撃を開始し,プファルツ継承戦争が起こります。このときハプスブ
ルクの皇帝軍はヴィーンからハンガリーでトルコ軍と戦っています。
 1688年,1689年にフランス軍の計略により,町や村,城が破壊されます。
13,500kgの火薬がハイデルベルク城の破壊に使用されました。
 1716年,カール・フィリップ・フォン・デア・プファルツは城の再建を考えま
す。が,宗教の問題で町と対立し,マンハイムへ政庁を移します。その後も歴代
所有者達によって,一部は再建されていきます。
 1764年,不運にも城に雷が落ち,フロードリッヒ館,オットハインリッヒ館等
を焼失します。これによりカール・テオドールは城の再建を断念しました。
 19世紀のロマン主義運動により城の価値が見直され,城とその歴史が研究され
ました。城を再建しようと言う意見もあったようですが,廃墟の姿のまま復元・
維持しようということになりました。史跡観光地となったのも,この頃からのよ
うです。


開館時間
 8:00〜17:00
 城の中庭と大樽,薬局博物館は入場券で見学できますが,城内の見学は別チケ
ットで英語かドイツ語のガイドツアーとなります。


●超手短探訪記

 都合により,ガイドツアーは英語コースとドイツ語コースの両方を体験してい
ます。英語コースは30人ぐらいの大所帯,ドイツ語コースに参加したときはたっ
たの5人!!でした。英語コースのときは,途中中庭で記念撮影をしました。ド
イツ語コースは,記念撮影なんてなかったなあ( ̄− ̄)。人数が少ないからか?


 英語コースでは最初の部屋,ドイツ語コースでは2つ目の部屋では廃墟と化し
た城の模型と最盛期の城の模型が置いてあります。ここで城の歴史の説明を受け
ます。

ガイドのお姉さん,
「始めは木製のブルクでした。(中略)3度の破壊に遭い…。(中略)それを最
後に人のすまない廃墟となりました。」

ツアーに参加していたドイツ人ばあちゃん,
「おおっ!!しゃ〜で〜(schade:残念な,悔しい)。」

 言い方からして,なんだかとても心に響く一言だった。


 他に,ワイン汲み上げポンプ,王の間,子供部屋等を見て回りました。歴代侯
爵像の前では,その人についての説明もなされました。


○基本用語
 ブルク(Burg)
    城砦。中世騎士の時代に主に建てられた,軍事機能に重きを置いた城。居住
    性に乏しい。

 シュロス(Schloss)
    城館。騎士の時代も終わりになり,軍事機能よりも居住性が重要視されるよ
  うになった城。


○あとがき

 この城は5回行ってます。「5回も行っているなんて,うらやまし〜!」と言
う声と,「まだ数えられる範囲内で収まっているなんて,うらやまし〜!」と言
う声が聞こえてきそうです(-_-;)。その意味するところは,在独者なら分かると
思う…。
 今回は,サイトに載せる記事を書いてからMM用を書きました。一度に2つ以上
の城を調べるのはかなりきついので,時々サイト同時アップネタになってしまう
と思います。歴史はともかく,探訪記はサイトのほうが遥かに詳細になっている
はず…。


次号予定は,フランケンシュタイン城(オーデンヴァルト)。
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    発行人:ぺんた
    サイト:http://burgen.hoops.ne.jp/
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