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                                09-04-02
        ドイツの古城    〜歴史の旅
       【第7号  フランケンシュタイン城(オーデンヴァルト)】
                       http://burgen.hoops.ne.jp/
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○はじめに

 みなさんこんにちは,気分だけ春休みしてしまった発行人のぺんたです。みな
さんは,ドイツに一体いくつの城があると思いますか。答えは,沢山です。1万
とも2万とも言われています。
 どの城にもその城の歩んだ歴史がありますので,それをみなさんに紹介します。

 第7号は,ダルムシュタットの南のミュールタールという所にあるフランケン
シュタイン城です。
 フランケンシュタインという名の城は,私の知っている範囲で他に2つありま
す。ラインラント・プファルツ州のフランケンシュタイン(という名の町)に同
名の城があり,オーストリアにも同名の城があります。区別のために()で城の
ある森の名を入れました。


●フランケンシュタイン城(Burg Frankenstein)

 948年,聖霊降臨祭に行われたケルンのトーナメントで,アルボガスト・フォ
ン・フランケンシュタインが活躍したことが記録に残っています。しかし1252年
までは殆ど何もわかっておらず,確かではありません。
 1195年にムッターシュタットにある領地を売ります。
 13世紀初頭,コンラート二世・ライツ・フォン・ブロイベルクがエリザベート・
フォン・ヴァイターシュタットとの結婚により,この地域の領主となります。彼
がここに最初のブルクを建てました。
 1252年6月2日に帝国封土となります。
 1264年から○×・フォン・フランケンシュタインと名乗るようになりました。
 1292年にウルリッヒ・フォン・ハーナウ伯爵と契約し,しばらく後にディータ
ー・フォン・カッツェネルンボーゲン伯爵とも契約しました。
 1360年ごろに家系が二つに分かれ,それぞれ西側と東側に分かれて住みました。
 1433年にフィルップ・フォン・カッツェネルンボーゲンとコンラート・フォン・
フランケンシュタインは巡礼の旅に出,イタリアに入り,シナイ半島まで到達し
ます。コンラート・フォン・フランケンシュタインはそこで騎士叙任式を受けま
す。
 1526年,ヘッセン方伯フィリップは宗教改革を受け入れてプロテスタントにな
りましたが,フランケンシュタインはカトリック信仰のままでした。信仰の孤島
となります。
 1606年に本家二家系が途絶えます。
 1662年,ヘッセン・ダルムシュタット方伯ルードヴィッヒ四世がフランケンシ
ュタインととエバーシュタットの半分を10万9千グルデンで購入しました。
 フランス国王ルイ14世との戦争時,ライン川流域から来る難民達の避難場所と
なりました。傷病兵救護施設ともなり,最終的に刑務所となりました。
 1714年に終身刑の囚人により所長が射殺されましたが,1737年まで所長一家が
ブルクに住んでいました。
 1740年頃,城の一部が崩壊します。
 1835年からほぼ19世紀の終わりまで,当時のロマン主義運動により図面無しで
復元作業が行われました。
 1965年に城の一部が取り壊され,レストランが建設されました。当時城までリ
フトで登れるようにする計画もあったようですが,これは今でも実現しておりま
せん。

 ヘッセン・ダルムシュタット方伯にフランケンシュタインを売ったお金でウル
シュタットを購入し,そこのバロックシュロスに今でもフランケンシュタイン家
(傍系)が住んでいるそうです。


開館時間
 夏季は毎日10時から
 ガイドツアーは日曜日の11時〜16時に1時間毎


公式サイト
http://www.burg-frankenstein.de/
ドイツ語


●小説『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー著とフランケンシュタイン
城

 1816年6月16日,夏の嵐のスイスの山小屋。メアリーとその仲間の計5人で怪
奇小説を書き争った際に,メアリーが一夜で書き上げた小説が『フランケンシュ
タイン』です。

 物語に登場するヴィクトール・フォン・フランケンシュタインの人物像は,ベ
ンジャミン・フランクリンと,インゴルシュタットの大学で解剖学を教えていた
チャールズ・ダーウィンの祖父エラスムス・ダーウィンが基になっています。

 しかし一番基になっているのは,フランス軍の進攻によりオッペンハイムから
フランケンシュタイン城に避難してきた夫婦から,1673年8月10日に生まれた宮
廷錬金術師のヨハン・コンラート・ディッペルです。
 彼は神学,医学,錬金術を学びました。ギーセンで発表した論文が騒ぎになっ
た後,1696年に一時アルザスに行きますがすぐに故郷に戻り,財政難のダルムシ
ュタットの宮廷に取り入りました。そこで錬金術の研究を行います。色素のベル
リン青の発明が唯一の成果です。一般的な化学物質のほか,子供や若い娘の血を
扱っていましたため,周辺の村では良くない噂が立ちました。
 ハプスブルク帝国がトルコと戦争しているとき,彼はアルトナに逃げました。
アルトナでデンマークの要職に就いていましたが,ストラスブール時代に書いた
ものが原因で,1726年に捕らえられます。彼は公開裁判にかけられ,死刑判決を
受けました。
 彼は1734年にヴィットゲンシュタイン城で亡くなりました。

 1814年,メアリーとシェリー(後にメアリーと結婚)はロンドンから駆け落ち
し,途中ドイツに寄っています。彼女はフランケンシュタイン城が二つあるとい
うことを知っていたと,日記より分かっています。
 マンハイムとマインツの間に滞在し,その時フランケンシュタイン城廃墟とダ
ルムシュタットを訪れたのではないかと思われます。



○基本用語
 ブルク(Burg)
    城砦。中世騎士の時代に主に建てられた,軍事機能に重きを置いた城。居住
    性に乏しい。

 シュロス(Schloss)
    城館。騎士の時代も終わりになり,軍事機能よりも居住性が重要視されるよ
  うになった城。


○あとがき

 怪物フランケンシュタインは実在のフランケンシュタイン家とは関係が無いの
で,フランケンシュタイン家にとってはどえらい迷惑。

 何気に本屋で世界のお城を1000以上紹介した写真集を見つけました(買わなか
ったけど)。日本のお城も当然紹介されていました。姫路城が“Schloss 
Shirasagi-jo”で犬山城が“Hakutai Schloss”だったかな。松江城が“Burg 
von Matsue”だったような(うろ覚え)。これはシュロスでこれはブルクなのか
と感心しながら立ち読みしてたんですが,日本の城は詳しくないのが悲しいとこ。

 4月です。本格的な城廻シーズンの始まりです。冬季もやっている所もあるけ
ど,多くの城は夏季のみ開館。4月1日またはイースター開始の所が多いです。
今年はどこへ行こうかなo(^o^)o たまにゃ北や東にも行きたい。


次号予定,ブランデンブルク城。
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    発行人:ぺんた
    サイト:http://burgen.hoops.ne.jp/
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