ブルクの歴史
少しずつ加筆修正しながら書いています。(^-^;)
中世以前
ブルクの起源を探し出すのは難しいのであるが,先史時代にはもうとりでらしきものが建設されていたようである。谷,岩山,川,湖等,守り易いところに建設はされていたようである。その際,自然の地形は可能な限り活用した。
狭い出入り口だけを設け,それ以外の部分は木柵又は石塁で囲った。
普段は使用しないが有事の際,家畜と共に逃げ込める避難ブルク(Fluchtburg)である。
この程度の防御施設でも,襲ってくる敵に対してかなりの効果を発揮した。
このころのブルクはヒューゲルブルク(Hügelburg)の形態を取る。英語で言うところのヒル・フォートだと思う,多分。
この頃のブルクに起源を持つ城の代表として,ヴュルツブルク(Würzburg)のマリエンベルク要塞(Festung Marienberg)がある。この要塞の始めは,ケルト人の砦だった。(外観に当時の面影はありませんけどね。^^;)
ローマ時代
ローマはゲルマニアとの国境に土塁と木柵からなる国境城壁(Limes:Deutsche-
Limesstraßeというのがあるが,その名残か?)を建築。要所要所に
見張塔(Wachturm)と
城塞(Kastell)を設ける。そして軍隊(Legion)を常駐させていた。
ローマ軍の砦は四角形をしており,始めは一重の堀と土塁,木柵から成っていたが,次第に石の城壁と幾重もの堀を備えるものへと発展して行った。兵舎,馬屋,倉庫もすべて石造りに成った。石の城壁は,厚さ4m,高さ4〜8mあった。そして四隅に見張塔を設けた。
このローマ軍の砦(ラテン語でcastellum parvulum)は英語の“castle”,仏語の“
chatâau”,伊語の“castello”の語源となっている。
参照:
ザールブルク(Saalburg)
避難ブルクが城の起源とする説も在れば,ローマの城塞が城の起源だとする説(これは主にイギリスの城)もある。ドイツの城はローマの見張塔が起源だとする説があるので,見張塔を紹介する。
ローマの城塞は重要な要所に設けられたが,国境城壁のそれ以外の所は見張塔が設けられた。
見張塔は,塔の周りに木の杭を密に打ち込んで囲み,その外側を水掘りで囲んだ。
塔の底面は7×7から14×14で,高さは15mから25mあり数階建てである。
1階には出入り口も窓も設けず,管理人の為の備蓄に使われていた。上層階にはバルコニーのような張り出し歩廊が設けられ,塔を1周して全ての方角が見渡せるようになっていた。
中世初期−最初のブルク
最初のブルクは木製であり,
モッテ(Motte:英語のモット綴り知りません)というものであった。(一般的にMotteと言われるているけど,コテコテのドイツ語で表現すれば,トゥルムヒューゲルブルク
ゝrumhügelburg(塔丘城?
^−^;)と言うらしい。)
人工的に盛り上げた丘の上に2〜3階の塔を設け,周りを木柵で囲った。モッテの麓には防御された村である
フォアブルク(Vorburg:仏語でベイリー)が設けられ,同じく木柵で守られていた。時にはモッテもフォアブルクも周りを水掘りで囲み,更に防御を固めていた。
900年頃,フランク王国は北からのヴァイキング(Wiking)襲来だけでなく,南からはサラセン人,東からはハンガリー人の攻撃を受けてた。
923年,ドイツ国王ハインリッヒ一世(Heinrich I:在位929-936)は諸侯にモッテを造る許可を与えた。それと同時にそれらに対抗しうる騎兵も準備させた。これが騎士の起こりである。そして各地の封建領主達,特に国境付近に住む封建領主はモッテを造り,これらの襲来に対して自らを守るしか手だてはなかった。
この時,数千ものモッテが建てられた。
この許可が下りるまで,臣下ものもたちはブルクを築く事は出来なかった。ブルクを造る権利は王権に属し,臣下がブルクを築けば反乱の拠点ともなり得るので造らせなかったのである。
ヴァイキングやハンガリー人の襲来という事態から,臣下にブルクを造る事を許可せざるを得なかったのである。国王の力の弱さを示しているとも言える。
後に続く騎士ブルク(Ritterburg)の起源をこのときのモッテに見ることが出来る。
これらのモッテ弱点は,木製であることであった。破壊槌や投石器に対して弱く,火に弱いのが致命的であった。その為,始めは城壁の一部,後にはすべても石製になっていった。
現存するモッテは殆ど無い。モッテは次第に水城へと進化していった。それゆえ水城の登場は山城より早い。
山城が登場するようになったのは水城よりもやや遅れ11〜12世紀,山頂や山の突端部に立てられた。
左の写真は11世紀頃のマールブルク城の想像模型である。まだ塔だけで環状城壁は無いものの,塔への出入り口は高い位置にあり,周りに軽く掘りが掘られていることが,お分かりいただけるだろう。中世最盛期の12世紀には,この城も周りに環状城壁が建ち,城らしい形になってくる。
中世最盛期-十字軍の影響
中世最盛期,ドイツは国王の二重選挙が行われるなど,諸侯の対立が激しかった。それゆえ第二期ブルクブームが起こる。現存する城砦の基礎はこの時期にほぼ出揃うことになる。
十字軍が派遣された時代,十字軍士たちは中東より進んだ築城技術を学んできた。この時代,城の防御機能は飛躍的に良くなる。
シュタウフェン朝は
フリードリッヒ赤髭王(Friedrich I. Barbarossa)の時代である。赤髭王は帝国直属
ミニステリアーレ(Ministeriale)を組織し,帝国城砦(Reichsburg)を造らせ配置した。
この時に建てられた城は石造りの環状城壁を持ち,たいていは四角形の塔を持つ。地域によっては四角い塔よりも丸い塔の方が多い所もある。
塔と城壁だけの簡単なつくりではあるが,当時の兵器では手も足も出なかったようだ。