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クロンベルク城
(Burg Cronberg または Burg Kronberg)
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お城の写真だよん
- 1150頃
- 最初はクロンベルク(Cronberg)ではなく,エシュボルン(Eschborn)の領主として文献に登場する。フリードリッヒ一世赤髭王(Friedrich I.Barbarossa)に封土を与えられ,帝国直属騎士(Reichsritter)となる。
- 1216-1223
- 岩盤の上に城壁を持つ城(クロンベルク城)を建てた。
- 1230
- 文献上にクロンベルクの領主としてはじめて登場する。
- 1339,1344
- すべての男子に相続権があるというゲルマン特有の分割相続を禁止した。それまでは同族内で分割と合併を繰り返し,細分化していった。
- 1346-1349
- フランクフルト(Frankfurt am Main)の王国側町長となる。1350年の文献に寄れば,ヴァイスアドラーガッセ(Weißadlergasse)にクロンベルク家の宮廷があったらしい。
この頃,ドイツ全体で一般的な動きではあったが,都市同盟と封建領主は次第に敵対するようになっていった。
- 1389
- ついにその敵対感情が爆発し,戦争となった。フランクフルトはあちこちの同盟としに救援を要請し,クロンベルクもまたあちこちの騎士や封建領主たちに救援を要請した。この戦争で当たり一帯は荒廃した。フランクフルトは負け,7300グルデン(馬約5500頭分の価値)を弁済しなければならなくなった。
- 1395
- フランクフルトはすべての負債の支払いが終わり,クロンベルクと和解。再び同盟を結んだ。
- 1440
- フランク11世(Frank XI)の頃最も栄え,城下にヨハニス教会(Johanniskirche)を完成させる。
- 1521
- ハルトムート12世(Hartmut XII)はヴォルムス帝国議会(Worms Reichstag)に出席。皇帝カール5世(Karl V)に反感を覚え,失望する。その後,ヴァルトブルク(Wartburg)に捕らえられているルター(Luther)と手紙のやり取りを何度かしたようだ。
- 1522
- ヘッセン方伯フィリップ(Landgraf Philipp)に陥落させられる。ハルトムートは城の北側から家族を引き連れて逃げ延びた。
- 1544
- カッセルでヘッセン方伯と和解。再び城に戻って家族と生活した。
- 1622
- 身内の間で宗教分裂が起こり,戦争になる。
- 1630
- 帝国伯爵(Reichsgraf)に格上げされる。
- 1704
- シュヴァイカルト2世(Schweikart II)は一生独身ですごし,慈善事業に精を出す。そして終に家系が途絶えた。マインツ(Mainz)司教の所有となる。
- 1796
- フランス軍に占領され,破壊される。礼拝堂は馬小屋として使われた。
- 1803
- ナッサウ(Nassau)に分割される。ナッサウの国有財産として,最悪の荒廃は免れた。
- 1891
- 皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II)は母親に城をプレゼントする。彼女はここを修繕し,かつての領主等の研究をさせ,16,7世紀の工芸品を収集した。
- 1912
- 彼女の娘マルガレーテ(Margarethe)は修理を終了さらせ,一般の人も城を訪れることができるようにした。
- 開館期間
- 4月〜10月の土日のみ
- 開館時間
- 土曜日:13:00〜17:00
日曜日・祝日:11:30〜17:30
- 城主
- Stadt Kronberg